普段、ニュースなんて、まったく見ないし、聞かないのですが、
今日、実家に来ているのと、事件が茨城県の水戸市であったので、
興味をもって、19歳の両親殺害の事件を聞いた。
ニュースでさっと聞いたのと、いつものように、訳の分からない事を
言っているニュースコメンターのせいで、状況は良くわからないけど、
行なわれた事件と田舎の特性と僕の想像力だけで考えてみた。
行なわれた行為、それ自体を支援するつもりなんて毛頭ないし、
別に僕とは直接、関係のない事なので、本当はどうでもいいことだけど。
でも、気持ちが分かる様な気がした。
それを、どういう形で表現するか?は別として。
親の世代の価値観と僕らの世代の価値観は、同じではない。
良い大学に行く事。真っ当に生活する事。みんなと同じにする事。
それらが出来ないと『恥』の対象になって、阻害される。
水戸の事件の両親は、専門学校に受かったが行かなかった子供を
校正させようと、ニュージーランドに連れて行ったりしていたそうだ。
そんな事しても意味ないのに。
校正なんておこがましい。
そもそも、僕とあなたは、『違う』のです。
という立場にたって考える事ができない。
『どうして、大学に行かないの?』
『何がしたいの?引きこもりなんてしてないで!』
それらの言葉や態度には、きっと、
『普通』の人は、こうあるべきで、それが出来ないのは恥ずかしいという
姿勢が出ているんだろう。と思う。
『普通』の感覚で一般化する事は、良くない事だと思う。
テレビなんて見ていると、彼は、
『大人しくて、普段、目立たないコだった』
『決して、そんな事をする様なコじゃなかった』
なんて言う。
それは、何も分からないから、当たり障りのない事を言ってるだけだ。
または、数年前の幼児殺傷事件の子供の様に、
彼は、家の中で、子供の頃、鳥を殺したりしていて異常だった。
と、コメントされて、そういう異常な子供だったから仕方ないと
片付けられる。
これから、そういう事件は、後を絶たないと思うし、
きっと、解決もされないと思う。
それは、もう『普通』なんてものは、成立しなく、
それぞれの『個人』に目を当てて考えなくてはならないのに
必ず『普通』と『それ以外』に一般化して考えてしまう人たちが
世の中を動かしているからだと思う。
『ニート』なんて、馬鹿げた言葉がその典型だ。
親と子供の価値観のギャップは、今、特に広がっている様な気がする。
僕は、田舎の生まれだから、特にそう感じるのかもしれないけど、
僕の親が信じている事が、今は、信じる事が出来ない。
そんな、そもそものコミュニケーションの土台に相違がある人同士
が、コミュニケートするのは難しい。
加えて、親と子供の間には、『他人』という概念が薄いために
なお更、難しい。
僕は、今回の事件の彼を自分に当てはめて考えて、ゾッとした。
もし、僕が茨城にいる事を選択していたら、同じ事をしたかもしれない。
と考えたからだ。
彼が、田舎を出ていたら、一人で暮らしていたら、新しい世界を覗く機会が
あったら、変わっていたのかもしれない。
『個人』を追及していかないとダメな時代と、『全体』の尺度で
判断される時代の間で生きるのは、ストレスが多いと思う。
全ては、価値観のギャップが、コミュニケーションを妨げる。
お互いが『違う』事を前提にしないとね。